音楽

すべての若き野郎どもへ

ドアーズのジム・モリソンのカッコよさでロックに目覚めた(カッコよくなければロックじゃないよね)バカガキの私ですが、高校生まではお金がないので音楽はもっぱらラジオで聴いていました。いわゆるひとつの~、キヨシローさんのRCサクセションの名曲「トランジスタラジオ」の世界ですか~。(某N嶋氏口調で)

'70年代、毎週土曜日の午後はNHK関東各局がFMラジオで独自の音楽番組を放送(注1)していたので、それを聴くのがなによりの楽しみでした。土曜日は午前中で授業が終わると本郷高校(注2)生のオアシス・オババ(注3)にも寄らず級友たちともつるまずにすっとんで帰り、家に着くや間髪を入れずラジオのスイッチをオンし、ほとんど寝るまで音楽漬けでした。

何かアメリカの映画に出てくる、勉強はまるでダメで音楽ばっかり聴いているニキビだらけの少年みたいですが、ただただロックを聴くのが好きだったのですね(まぁ今もだいたい同じですが)。

そして就職して自分で使えるお金ができるとさぁ大変です。今まで欲しかったレコードを手当たり次第買いまくります。家に入れるお金以外はほとんどレコードにつぎ込みました。それもブリティッシュロックが大半です。なぜブリティッシュロックかというと、もうこれは「肌に合う」としか言えないかもしれません。やはり島国同士、気が合うんでしょうかね。

そのころ勤め先は九段下寄りの西神田で、帰り道にはレコード屋さん(中古レコード屋さん含む)がいっぱいありましたから(注4)、毎日のように何かしらレコードを買っていました。中古ならLPでも1500円でしたし。LPでピンとくるものがなければシングル盤を買うという具合です。シングル盤っていいですよね。聴いたことのないバンドのLPを買って「あちゃ~」っていうより、損害が少ないですから。あとたまに、LPには入っていないスペシャルバージョンの曲がシングル限定でリリースされることもありますし、シングル盤の情報も要注意!てな感じです。

いやしかし買いまくりましたね。当時はロックのレコードでもミリオンセラーとかよくありました(注5)し、私だけでなく、みんなレコードとかよく買ってましたよね。音楽業界にとってもいい時代だったのではないでしょうか。まぁ私は売れている音楽とかには「これ、いいかなぁ?」的に、全く興味を示しませんでしたがね。

好きなレコードが買えるようになって、まずは聴きたかったいくつかのLPを買いました。ロキシー・ミュージックの『ロキシー・ミュージック』(注6)、モット・ザ・フープルの『ライヴ』、キングクリムゾンの『太陽と戦慄(邦題)』(注7)、ウィッシュボーン・アッシュの『ライヴ・デイト』(注8)、サンタナの『キャラバン・サライ』(注9)、イエスの『イエス・ソングス(3枚組)』(注10)などです。なぜかライヴアルバムが多いですね。多分、これらのバンドのライヴが見たかったんでしょう。よくわかりませんが(笑)。えっ?サンタナはブリティッシュロックじゃないだろって(注11)?そうなんですか?(おいおい)。

いずれも、ラジオで聴いて「おおっ!」と思ったり、洋楽ファンのバイブル『ミュージックライフ』で写真を見て「かっこいいなぁ!」と思って気になっていたアーティストです。まぁ正直な、賢い買い方ですね。いくら売れてるアーティストだって、他人の尺度なんかあてになりませんからね。以前の記事でも書きましたが、昔は情報が少ないのに加えて、実際に音に触れる機会も少ないので、アーティストの写真を見て音を想像するのは普通のことでしたから。見た目がかっこいいアーティストは美的感覚も鋭いので、音もいい場合が多いのですね。

で、やっとモット・ザ・フープルです。これも、『ミュージックライフ』で見て、挑発的なビジュアルと中学生のころ親しんだグラムロック的な雰囲気、そしてイアン・ハンターがばかでかい斧のようなギター(注12)を弾きながら歌う写真が強く目に焼き付いていましたし、モットを有名にした曲「すべての若き野郎ども」はラジオで聴いて知っていたので、「ライヴはさぞかし凄いんじゃろうな」と、スタジオ盤より先にライヴ盤を買ったわけです。それに、ミュージックライフには「ロックバンドとして史上初、ブロードウェイ(中野のじゃありませんよw)で公演。前座はいま売り出し中の新鋭バンド、クイーン(注13)(なんとクイーンがモット・ザ・フープルの前座ですよ奥さん!)」(括弧内は筆者コメ)「コンサートでは暴動がたびたび起こる」などと紹介されていましたから、期待値は爆上がりです。

で、聴きました。…いやいやいやいや、期待を裏切らないライヴに、すっかりしびれてしまいました。強烈にドライブする音の塊、イアン・ハンターの激しくアジるヴォーカル、エリアル・ベンダー(注14)のワイルドかつドラマチックなギター、そしてリリカルでいながら激しく訴えかけてくるナンバー…とくに地元イギリスはハマースミス・オデオンで行われたギグの演奏を収録したB面(懐かしい響き!)の凄まじい演奏は筆舌に尽くしがたいです。あえて動画とかのURLは載せませんが、気になるかたは「モット・ザ・フープル ライヴ」で検索してみてはいかがでしょう。ステージは現代に比べると凄まじくシンプルですが、演奏はバッチグーですよ!

しかし、なんとこのモット・ザ・フープル、ライヴアルバムをリリースしてしばらくして分裂してしまい、私がこのアルバムを買ったころにはイアン・ハンターは元デヴィッド・ボウイの「スパイダース・フロム・ザ・マース」のミック・ロンソンと「ハンター・ロンソンバンド」なるものを結成しますが結局長続きせず(イアンが倒れたためとか)、モット・ザ・フープルの残党諸氏も新ヴォーカリストを迎えて再スタートするも、これもパッとせず。ファンとしては残念な日々でした。


その後長い年月を経て、2009年でしょうか、オリジナルメンバーで「あの」ハマースミス・オデオンでリユニオンコンサートを行いました。いやぁ、もうこのライヴの映像、熱烈なファンなら号泣必至ですね。ね、モリッシーくん。ミック・ラルフスがだいぶふくよかになったのは残念ですし(人のこと言えるのかいw)、ドラムのバフィンは体調不良で不参加でしたが、御大イアン・ハンターは全く体型も変わらず、激しくアジるヴォーカルも全く衰えず、という風情でガンガン歌いまくり弾きまくります。さすが華麗なる船頭さん、もとい華麗なる煽動者(当時日本のレコード会社がつけた叩き文句)w。ミック・ラルフスの「これぞブリティッシュロック」というギターもギンギラギンに鳴っていますし、オヴァレンド・ワッツも膝上丈のギンギラギンブーツこそ履いていませんが、足をガッと開き、ファイヤーバードベースから指弾きながら硬質なサウンドを繰り出しています。もう私は泣きっぱなしですw。まさに「ロックンロール黄金時代(邦題曲名)」です。

ところが最近、ショックなニュースが流れてきました。あの「魅せるベース野郎」、モットのサウンドの要オヴァレンド・ワッツが闘病のすえ、逝去したというではないですか。数年前なくなったバフィンに続き、なんということでしょう!クリス・スクワイヤもグレッグ・レイクもジョン・ウェットンも、そしてオヴァレンド・ワッツまでも…なぜこうも英国のナイスなベースプレイヤーばかりが…さすがにベーシストが逝ってしまったら、もうモット・ザ・フープルとしてのライヴは永遠にないのか。ああ。


…そこで私、若いミュージシャンの方にお願いがあります。かつてデヴィッド・ボウイが瀕死のモット・ザ・フープルに送り、バンドの解散をまぬがれた名曲「すべての若き野郎ども(邦題)」、作者のボウイはすでにこの世の人ではなく、イアン・ハンターも結構なお歳(失礼)ですから、いつまで歌えるかわかりません。この名曲が忘れ去られてしまうのはどうしても我慢できないのです。かといって、私には演奏能力も歌唱力もなく仲間もいない。この曲のよさをわかる若きミュージシャンに歌いついでほしいのです。日本人でも英語圏のかたでもかまいません。老い先短い(笑)ロック馬鹿のお願いです。あとは頼んだぞ。


「ロックンロール黄金時代は終わらない 子どもたちが笑い、泣く心を失わない限り」(ロックンロール黄金時代より)






(注1)毎週土曜日の午後、NHK関東各局が独自に音楽番組を放送していた。これらのラジオ番組を聴くことは、私にとって1週間の最重要課題だった。マジで。レコードなんかそうそう買えないからだ。私のお気に入りはなんといってもNHK浦和さんの「浦和ミュージックサタディ」。当時埼玉県浦和は「ロックのメッカ」と言ってもよく、荒川の河川敷で開催されていた「田島が原フリーコンサート」や、浦和の埼玉会館でも伝説的なロックコンサートがよく行われていた。

(注2)筆者の出身校(笑)。豊島区駒込にある。駅的には駒込駅より巣鴨駅のほうが近い。デザイン科もあったが(筆者が卒業した)現在は廃止されている。

(注3)本郷高校のそばにあった駄菓子屋。塩煎餅・ペヤング・チェリオ・おでんが人気メニュー。A川区在住のH君は時々、店主の「オババ」の目をかすめておでんを一つ二つちょろまかしていた(笑)。部活後の運動部の生徒にも人気が高かった。

(注4)今も昔もお茶の水~神保町~水道橋界隈は音楽産業(笑)が盛ん。神保町すずらん通りにあった「ササキレコード社」には通算1万回(というのは嘘です。御免なさい)くらい入ったかも?

(注5)イーグルスのアレとかピーター・フランプトンのソレとか。

(注6)ロキシーミュージックの記念すべきファーストアルバム。第一印象は、サウンド・ビジュアルとも「なんじゃこりゃあ~!」。いやいやたまげたのなんの。ブライアン・フェリーのエキセントリックなボーカルはじめ音楽的なインパクトは絶大で、「イフ・ゼア・イズ・サムシング」のもたらす高揚は、同年代のデヴィッド・ボウイの「スターマン」をはるかに凌駕する。

(注7)キング・クリムゾンの歴史の中でもおそらく最強のメンバーによるアルバム。「音楽の妖精」ジェイミー・ミューアも重要なアクセントを加えている。

(注8)美しいギターサウンドと空気感がたまらない。私の長年の愛聴盤。

(注9)ジャズっぽいというべきかエスニックぽいというべきかサイケデリックというべきか、いやいややっぱりスペーシーサウンドというべきか、とにかくアルバムジャケットがすべてを表しているだろう。

(注10)やっぱりスペーシーサウンドといったらこっちかな。この音宇宙は驚異的。

(注11)まぁブリティッシュロックでもアメリカンロックでもどっちでもいいじゃないですか(自分突っ込み)

(注12)ギターのボディが金属で、巨大な「H」形なんですから奥さん。オヴァレンド・ワッツもなんかサメみたいな形のベースを弾いたりしてましたね。まぁサービス精神なんでしょうね。

(注13)後年、クイーンのほうが圧倒的に売れっ子になっちゃいましたね。ま、それも無理ないですよね。イアン・ハンターやめちゃうんだもんなぁ。クイーンは日本の女の子人気が凄まじかったですね。それに引き換えモットはコワモテだしなぁ。

(注14)キッスのエース・フレーリーは、エリアル・ベンダー(本名:ルーサー・グロヴナー 元スプーキー・トゥース)のステージ衣装を見て、「スペース・エース」の衣装を思いついたそうですよ。エース・フレーリー、チェリー・サンバーストのレスポール・カスタムから繰り出す徹頭徹尾シンプルなロックンロール・ギターがめちゃくちゃかっこよかったですよね。きっと、アメリカのギター小僧だったエースもモットが大好きだったんでしょうね。わかるわかる~!えっ?エース・フレーリーをまったくご存じない?(泣)こりゃまた失礼いたしました~!(植木等口調で) 

裸のラリーズを観たことがあるかい

長い活動歴を持ちながらも不定期に行われるライヴ以外はメディアへの露出もほとんどなく、「日本ロックの極北」「日本ロックの伝説」といわれた裸のラリーズの名前を私が知ったのはいつごろでしょうか。

昭和の洋楽好きのバイブル「ミュージックライフ」誌に1974年頃、裸のラリーズのコンサートレビューが載っていたのを、個人的には最も古い記憶として覚えています。内容としては「ステージの両側にはオートバイが設置され、そのライトが客席を照らす中、延々とサイケデリックな演奏が繰り広げられ~」というようなレビューだったと記憶しています。

それ以後も音楽雑誌などでまれにライヴのレビューを目にするくらいでした。いわく「音のテロリズム」「裸のラリーズのライヴの告知が出ると、どこからか黒い服に身を包んだ夜の子どもたちが集まってくる。そして、何時間でも水谷の登場を待っている」といったような。

そしてごくたまにメディアに登場するステージ写真は、モノクロームで不思議な神秘性を感じさせ、なにか惹かれるものがありました。しかし、音も全く聴いたことがないし、露出がこうも少ないと得意()の「写真から音を想像する」技も使えず、お手上げです。不定期に行われるライヴに行き、自分の目と耳で確かめるしかありませんが、私のような生半可なロックファンには手に負えない感じもし、どうにもライヴ会場に足を運ぶまでには至りませんでした。


時は流れて1988年、それまで7年ほど勤めていた会社を辞めてフリーの身(よく言えば「充電期間」の、貯金を取り崩す生活)だった私は、ある時「ぴあ」をパラパラとめくっていました。すると、都内の某ライヴハウスの出演者予定に普通に「裸のラリーズ」の名前があるではないですか。

これは…今観ろということに違いない。なにか今観なくてはいけないような気がして(結局それは正しかったわけですが)、意を決して観に行く(聴きに行く)ことにしました。

ライヴ会場は目黒の「鹿鳴館」。目黒駅を出て権之助坂をてくてく歩いて行くと右側にありました。入り口は小さいのですが中は意外と広く、映画館を改装したようにも見える、ステージの天井が高く雰囲気のあるライブハウスです。当時ラリーズは割合としてはこちらでよくライヴをやっていたようです。今思えばここは、水谷氏のお眼鏡にかなった会場だったのかもしれません。

そしてそして、初「ラリーズ体験」。開演前、ステージのバックには中世ヨーロッパの絵画やデ・キリコのシュールレアリスティックな絵画のスライドが延々と映し出され、会場には昔の映画音楽が流れお香が焚かれ、いやが上にも「ここではないどこか」感を高めます。ステージには三段積みアンプが林立し、ラウドな音空間が予想されます。

オーディエンスは案の定、黒を基調にした服に身を包んだ、いかにもマニアックなロックが好きそうな人たちが多いです。

開場からずいぶん時間が経ったでしょうか。ステージに数人の人影が現れ、センターに立ったボブカットというかブライアン・ジョーンズのようなというか、そんな髪型の華奢な男性がおもむろにギターにシールドを繋ぎました。

と同時に、今まで聴いたことのないようなサイケデリック(としか言いようがない)でラウドなサウンドが会場を支配しました。わぁ~っ!(心の声)

最初から「この音場は只事ではない」と感じさせるに充分な音です。サイケデリックでラウドなサウンドに加え、前述のような会場のセッティングそしてミラーボールが回転し、ステージのバックにはゼラチンライトがうねり、オーディエンスをのっけから異空間に叩き込みます。

何しろラリーズは公式な音源をほとんどリリースしていないので、私自身ラリーズのライヴを見るのも曲を聴くのも初めてです。それにしてもこのサウンドとステージングはオーディエンスの頭から「日常」をふっ飛ばすのに充分な威力を持っていると断言できます。これはヤバい!!!

曲は一曲が長めで、リズムも割とシンプルなのですが、空間を縦横無尽に飛び回る水谷氏のギターが圧倒的で、単に爆音なのではなく、かなり音的にバリエーションがあります。私もそれなりにいろんなロックを聴いてきましたが、こういうギタープレイをする人は他に知りません。普通思い浮かべる「ギターの音」をはるかに凌駕しています。すごい! 余談ですが、現存する中で私が最も好きなバンド「コクシネル」のセツさんは某誌のインタビューにおいて、高校生のとき吉祥寺にあった伝説のロック喫茶「OZ」で宿題をやっていたらその日の出演者がラリーズだったそうで、その演奏にぶっ飛んだというようなお話をされていました。さすが都会っ子は違いますね。

そんなこんなで圧倒されっぱなしの「遅すぎた初ラリーズ体験」でした。それに、サウンドやステージングもさることながら、ライヴの終わりにギターを肩からおろし、フィードバックの轟音が流れる中、オーディエンスに深々とお辞儀をしてゆっくりステージを去って行った水谷氏のミュージシャンシップにも感動を覚えました。普通「ロックミュージシャン」は、楽器をほっぽり出してとっととステージを去っていくような人が多いですからね(笑)。それに当時料金は確か1500円だったと記憶していますが、あれほど圧倒的なライヴだったらどう考えても「安すぎる」と思います(下衆な考えですね)。

それからは「ぴあ」でライブハウスの出演者をこまめにチェックし、ほとんど月一でラリーズのライヴに行っていました。今考えると、この時期は後期ラリーズでもライヴが多かった時期だったようです。

ラリーズのライヴは基本的には毎回、そんなに構成は変わらないのですが、演奏がタイトなときもあればドラッギーなときもあり、毎回微妙に違う印象を受けました。なかでも'886月のライヴは、1時間ほどの演奏でしたが(ラリーズのライヴはときに2時間をこえる)、最初から最後まで圧倒的にテンションの高い演奏が繰り広げられ、終わったあとは茫然としてしばらく現実に戻れませんでした。ライブハウスの外に出ると、夜の町の風景がなんとも静かでのどかに感じたのを覚えています。

このライヴの音はカセットに録り、よく聴いていたのですが、聴きすぎてテープが切れてしまいました。こんなすごい演奏を自分だけで聴いていたことに罪悪感を抱くほどの名演だっただけに残念です。


私がラリーズのライヴを最後に観たのは、'96年秋の川崎クラブチッタでした。会場は大きめでしたがそれに負けじと(?)ラウドなサウンドで、終演後耳の中で鈴虫が鳴いていたのを覚えています(笑)。それ以後、ラリーズとしてのライヴはほとんど無く、水谷氏個人でのセッション等が時折あったくらいだと思います。

 

現在、ラリーズの活動停止後にリリースされたさまざまなCDや動画サイト等でラリーズの映像や音源を視聴することはできますが、こう言うと嫌な言い方ですが、そこではあの視覚+聴覚+嗅覚に訴える圧倒的なライヴを体験することはできません。もちろん、こんな駄文を読んだところでその影すらわからないでしょう。結局なにが言いたいのかというと、「百聞は一見に如かず」というか、ライヴにおけるあの空気感や体に伝わってくるフィーリングは、やっぱりライヴに行かないとわからない、ということでしょうか。そして、水谷氏が意図した「総合芸術としてのロック」は私の中にしっかり残っているということでしょうか。

 


あのころからだいぶ経ち、今では音楽のライヴともすっかりご無沙汰な私ですが、昔荒川でやっていた「田島が原フリーコンサート」みたいに、ひろびろとした空の下で音楽が楽しめるライヴにラリーズみたいなシビれるバンド(死語)が出るなら、またライヴに行きたいな。

 


ジム・モリソンは水晶の舟に乗り、夏の夜を漕いでいった。

うちは4人兄妹(3)なのですが、小学生のころはそれぞれ、お小遣いとは別に雑誌や、たまにレコードなども買ってもらっていました。雑誌は週刊誌と月刊誌を買ってもらってましたから、読むものに不自由はしませんでした。その辺が今の仕事につながっているのかも。

 

今思えばオヤジは、そういった情操教材()を買い与えたり、この間の記事のようにバカガキ(私です)にねだられて自転車を買ってやったり、女の子ならそれなりに洋服も買ってやらなければならないしそれも3人だし、あれやこれや出費が多く大変だったと思います。まぁ当時はオヤジも大メーカーに勤めていましたし、皆、給料は永遠に上がり続けるものと思っていた時代ですからね。昭和は遠くなりにけり(しみじみ)

 

さて私も好奇心旺盛な年頃ですから、自分の「少年マガジン」や「少年サンデー」だけでは飽きたらず、妹たちが読んでいる「マーガレット」や「少女フレンド」、「りぼん」、「ティーンルック」などにも自然、目が行きます。里中満智子さんのデビュー作なんかも読みましたね。

 

その中で「ティーンルック」は当時のアイドルやグループサウンズのグラビアが多い「ティーン向け総合情報誌」だったと記憶しています。タイガース、テンブターズ、オックス、ダイナマイツなどなど。かっこよかったですね!(このブログ、どうゆう年代対象なの?)彼らがテレビに出演したときは私も妹たちと一緒に釘付けでした。そして、その「ティーンルック」のグラビアに彼はいたのです。

 

ジム・モリソン。アメリカのサイケなロックグループ「ドアーズ」のヴォーカリストです。ギリシャ彫刻のように彫りの深い顔立ち・挑発的な視線・「下半身を墨汁に浸したような」と形容された、彼のトレードマークとなった黒いタイトなレザーパンツ、それらが一体となり、私の目に強く焼き付きました。

 

「でらかっこいい~!(何故に名古屋弁?)どんな音楽をやっているんだろ?」そう思い、ラジオやテレビの音楽番組をチェックするようになりました。それでロックとかに興味を持ち始めました。

 

えっ?音はまだ聴いたことがなかったのかって??ええ、昔はみんなそうですよ?ビートルズなんかはともかく、マイナーなミュージシャンなんかラジオやテレビではそうそうかからないし、雑誌などでミュージシャンの写真や記事を見て、「どんな音なんだろう?」と想像するのは当たり前でしたから。そういう意味で前述の「ティーンルック」あるいは「ミュージックライフ」にはずいぶんお世話になりました()。ビジュアルから音を想像して楽しむ技術がつきましたから()

 

ジム・モリソンでロックに目覚めた()バカガキは夜になるとそういう音楽をやっていないかラジオを始終チューニングしたりして洋楽を聞いていました。そんななかでドアーズの「ライト・マイ・ファイア」「ハロー・アイ・ラブ・ユー」「タッチ・ミ―」などの曲がかかるともうテンション爆上がりで「ヤッタ~!シビレルぅ~!」てなもんでした。あ~、あの頃はピュアだったなぁ。

 

なにがいいって、当時流行っていたガチャガチャした音楽(失礼)とは一線を画すクールでサイケデリックなサウンド()、とくにレイ・マンザレクの奏でる病的なオルガンに絡むジムのワイルドでいてセクシーかつナイーブなヴォーカルがもうたまりません。この音はヤバいです。

 

当時、洋楽ではビートルズとかストーンズがメジャーでしたが、ビートルズはなにか音楽があまり面白みを感じず(おいおい)で、メンバーのルックスもいまいちだし(おいおいカミソリ送られるぞ)、ストーンズはなにかジャンジャカジャンジャカと頭悪そうで(おいおい殴られるぞ)、私にはいまいちでしたね。あ、当時バカガキが思っていたことですから、大目に見てやってください。バカガキのくせにいろいろうるさいのです。たちの悪いガキですね。

 

さてそんな目新しい洋楽にキャッキャ言っていた私にも、中学に入ると新たな興味の対象が現れました。別の学区からきた女の子たちです(予想された展開でつね)

 

小学校4年~6年はどういう施策か、3年間毎日同じクラスメイトと顔を会わせていて、永遠にこの日々が続くような錯覚すら起こるくらいでしたが、それがいきなり別世界に放り込まれたのです。髪を刈られ、変な黒い服(ゾッとしますな)を着せられて。

 

まぁでも見渡せば見たこともない女の子だらけ。しかもかわゆいの()。ぶっちゃけ、勉強どころではありませんね(バカガキに思春期が訪れてましたよ!)

 

しかし話はそう簡単ではなく、別の学区からきた不良っぽいのやら一言も口を聞かない奴やらひたすら純朴な男子やらもドッと現れたのです。これはドギマギしますよね。

 

中学時代はそんなこんなで何だかわけもわからず過ごしていました。あっ、ちゃんとラジオで「ロックのお勉強」はしていましたよ。当時は「ニューロック」とか「ハードロック」とかのジャンルのロックグループが雨後の筍(見たことあるのかよ)のように出てきて、ワクワクしながらラジオを聴いていました。レッドツェッペリン、ディープパープル、ヴァニラファッジ、ピンクフロイド、CCR、などなど、「ガキのくせに好みのうるさいアメリカのマイナーなロックグループ好き(私ですよ)」も多大なる影響を受けました。

 

そうなるとお小遣いを貯めてレコードを、となるのですが、うちにステレオはありましたが主にオヤジが趣味のクラシック音楽を聴くのに使ってましたし、一人でラジオでお気に入りの音を聴くのが好きでした。それに、レコードを買っちゃうと、マンガ雑誌とか買えなくなっちゃうし(さすがに中学生になったらマンガ雑誌は自分のお小遣いで買ってました)、音楽はかなり後までラジオで聴いていました。RCサクセションの「トランジスタラジオ」の世界ですね()

 

まぁそういったハードロック全盛時代の到来となると、ドアーズみたいなマイナーなグループはどうしてもラジオでもかからなくなってしまいます。そんなこともあって、ドアーズの曲はあまり私の耳には入らなくなっていました。

 

そして…1971年の梅雨の、雨の降る日でした。ラジオだと思いますが「ジム・モリソンパリで死す」のニュースが流れたのです。私にはこのことが、何か「子ども時代との決別」のような気がして、なんともいえない寂寥感(ガキが感じるかね?)を感じたのを覚えています。

 

そんな時期を経て、ドアーズのLP(初めて買ったLP)を買ったのはジムの死後になってしまいました。「ハロー・アイラブユー」のシングルは小学生のとき買ってもらった記憶があるんですが、ロックのレコードを親に買ってもらうなんて、屈辱的だということはわかっていましたからね。

 

買った店は覚えています。お茶の水のディスクユニオンです。初めて買ったLPであるドアーズのレコードをあの黒地に赤で店名が入った袋に入れて歩いていると、何かちょっと大人になった気分でした。

 

買ったのはもちろんファーストアルバムです。なんというか、このファーストアルバムにはドアーズそしてジム・モリソンのすべてが凝縮されていると思います。よく言われることですが、「ファーストアルバムを超えることは容易ではない」。これはドアーズにも当てはまると思います。

 

特にラストの「ジ・エンド」。この曲の静謐なカタストロフィ感は凄まじいものがあります。

 

暑い夏の夜、できるだけ静かな場所でひとりこの曲を聴けば、世界が凍りついたような感覚が襲ってきて、つかの間暑さを忘れられるのでオススメですよ(おいおい)

 


さて働き始めてからは可処分所得の大部分を使い、欲しかったレコード・新しいグループのレコードと手当たり次第に買いまくり音楽を楽しんでいました。そしてたまにはまたドアーズのレコードを引っ張り出して聴いていました。

 

それからずいぶん歳月が経ち、ときは20世紀末。私は当時小さな印刷関係の会社で働いていたのですが、ある日社長に呼ばれました。そう、業績悪化による「肩叩き」です。うすうす感じてはいたので、それほどショックはありませんでした。

 

さてどうしましょう。10年勤続の退職金をもらったので、とりあえずフランスにいくことにしました。そう、自転車ファンあこがれの「ツール・ド・フランス(略称ツール)」を見に行くのです。飛行機は怖いので今まで乗ったことがなかったのですが、ツールを見たい欲求のほうが勝ち、ついに渡欧を決意したのです。笑わないでください。本当に「決意」したんですから。だって飛行機が落ちたらイヤじゃないですか(マジ)

 

それから1ヶ月あまり、初めての飛行機の旅、そして初めてのフランスへの旅、それもあこがれのツール観戦の旅を前にウキウキ気分であれこれ準備をしました。

 

「フランス語も挨拶くらいは覚えとかなくちゃな。異国で迷子にでもなったら大変だからな。服や靴も新調してと。あとは最近の『サイクルスポーツ』誌の『ツール別冊』で予習をしてと。おお、右も左もフランス語で日本人のアイデンティティーの危機に見舞われたら大変だから本も持ってかなくちゃ」と適当な本を選び~の。

 

そして行ったフランス1週間の旅。いやもうカルチャーショックもいいところです。何しろ足立の田舎者がいきなり初日から「ツール最大の勝負どころ・ツールマレー峠」なんですから。なんにもしなくても心臓がドキドキするのは、空気が薄いせいじゃありませんよ。

 

ツールはフランス一周レースで、その最後の1週間を追うツアーですから毎日違うシチュエーションのコースで、もう見るもの聞くものエキサイティングなことこの上なし。

 

そんな楽しい1週間の最終日、「ツール・ド・フランス 怒濤のシャンゼリゼゴール」の翌日にパリで半日自由行動がありました。

 

前日パリのホテルで「どこへ行こうかな~」と地図を開きながら、読むために持ってきた本を取り出しました。本はドアーズのヴォーカリスト、ジム・モリソンの伝記です。

 

なんとなく本をめくっていると、ラストに「ジムはパリのペール・ラシェーズ墓地でとわの眠りについている」との記述が。

 

あっ!

 

 

なんという偶然でしょう!28年の歳月が一瞬にして邂逅しました。明日の自由行動は「ジムのお墓参り」に決まりです。

 

ツアー最終日は午前中、ガイドさんに連れられてパリ観光。昼食後、私は一人タクシーに乗り、ペール・ラシェーズ墓地に向かいます。東京でいうと青山霊園みたいな感じかな。

 

そして…あった!ジムのお墓がありました。しかしそれにしても、月曜日の午後だというのに(ツールが開催される7月、フランスは基本的に夏休みではありますが)、ジムのお墓の周りにはたくさんの老若男女がいて、花を手向けたり故人を偲んだりしています。この人たちもツールのシャンゼリゼゴールを見たついでなのでしょうか。昨日のゴールでは、末期ガンを克服したアメリカのランス・アームストロングが総合優勝しましたから、アメリカからランスの応援にきた人たちかもしれませんね。ジムはアメリカでいうと「赤木圭一郎(古っ!)」みたいな人ですから、いまだに人気があるのかもしれません。

 

私は日本から持ってきたジムの本をお墓にそなえ、彼が生きた時代に思いをはせます。ペール・ラシェーズ墓地を一回りし、再びジムのお墓のところを通ると、私が来たときからいた小学生くらいの女の子がまだいます。私がジムに一目惚れしたのも小学生のころですから、ジムにはこの年代の子どもを惹き付ける何かがあるのでしょう。

 

さて、そろそろ戻らなくては。私は28年経ってようやくジムに挨拶できた気がして、ほっとしたのでした。さよならではなく、挨拶をね。ジムの声を聞きたくなったら、いつでも聞けるから、さよならはいらないよね?

 


ジム、ありがとう。サリュ!またね!

 

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